触読愛好記

                        2024年7月1日

触れても触れてもボツボツとしか感じられなかった点字が、ようやく文字として8割程度判別できるようになったのは、触読したいという目標を立ててから20年以上たってからでした。
晴眼者である私にとって必要に迫られたことではないので最優先にできずにいたことも事実ですが、L点字から取り組むとか、基本となる読み取りやすい文字から順を追って進めるなどしていれば、もっと早くに手ごたえを得られていたでしょうに、長らく「読めない」の壁をどうすればよいのかわからない状態でいました。
長年過ごした職場には、点字を素早く正確に読み取る触読校正者の存在が常に身近にあり、滑らかな指先の動きに見入りつつ、触読したい!というあこがれを、日々募らせたものでした。

転機になったのは、ピンディスプレイに触ったことです。
紙よりも感触がくっきりしていて、サイズが少し大きかったこともあり、ひたすら読んで時々「当たる」というレベルから始まって、譲り受けたピンディスを毎日触るうちに、読める文字がいくつかできました。
長音や「ン」は形もさることながら、多くの語によく出てくるからでしょうか、早い時期から比較的認識率の高い文字になったようです。
無秩序に感じられる点々が意味のある文字として認識の世界に浮かび上がってくる瞬間の新鮮な喜び。けれども、まだ大半はベールの向こうにあるようなもどかしさでした。
このように試していると、一マスや二マスの文字を読み取るよりは、3マス以上の単語や、短文になっている方が解読しやすいことに気づきました。次の文字が何であるかを推測する余地があるからでしょう。
校正の場面では推測読みがミスの見逃しにつながることは言うまでもありませんが、触読を習得する過程では、推測読みも上達を助けるように思います。
実際点字を触読する際には、決して指先の触覚だけを使っているのではなく、言語処理に関わる脳の領域がフル活動しているという説を読んだことがあります。
推測読みをした文字のイメージを指が記憶することによって、読める文字が少しずつ広がっていく感じは確かにありました。
おそらく自転車に乗るコツや鉄棒の逆上がりをマスターすることと同じように、触読も、理屈ではなく、身体で体得する類のことなのでしょう。自転車乗りなどのコツは、いったん身体に記憶されると、忘れにくいのも特徴だといいますが、触読も似ているかもしれません。
ちなみに私は極端に不器用で、自転車乗りや逆上がりをとうとう会得しそびれたまま大人になりました。
触覚にも自信は持てませんでしたが、推測読みも交え、読書経験、点訳経験を総動員して読むという意味では、年齢を重ねた強みも少しはあったでしょうか。
そのうちに確実に読める文字がひとつずつふえるにつれ、クロスワードパズルの空欄が減るようなもので、読める確率が上がってきましたので、それが励みになりました。

目で見る印象と、触って読むときの印象がずいぶん違うように感じられた文字もあります。
「チ」と「ソ」は私にとってとても読み取りにくい文字ですが、私の触覚ではこれらの文字の点のない箇所を明確に感じ取ることが難しく、虚点の位置にはどうしてもお隣の点の余韻があるように感じられてなりません。
長年目で認識してきた文字の形と違うようですっきり腑に落ちないまま、この感じが「ソ」なのだと自分に言い聞かせているうちに、だんだん分かるようになってきた、そんな文字がいくつかありました。
同じ文字でも語頭にある場合と他の文字の後にある場合では違った感じになることも不思議です。
触読では文字と文字との間に生じる空白の形なども感じながら読み取っているからでしょうか。
タネのときのタとネタのときのタは触覚的印象が異なりますし、キタ、フタ、ヘタ・・・など、前の文字とタの文字が内包する空間が融合してさまざまな形を作ることが面白く、そのバリエーションの連続が触読のリズムにもつながるように感じます。

紙にプリントされた点字になるとピンディスにくらべて土台がやわらかく、私にとっては触読難度がアップしますが、触読の好みも様々で、逆の感想を持つ方もあるようです。
私はつい、「目を凝らす」イメージを指で体現するような感じで、指先に圧をかけてしまうのかもしれません。
私の知る多くのベテラン触読者は、すべるようにかろやかに読んでいたものでした。
また行を飛ばさずに読んでいくためには、私の場合、行末まで読んだら冒頭に指を戻すという動作も行わなければならないので、腕の動きも必要になります。
けれどページをめくることによって、1ページ読めたという達成感が得られるのは、冊子の良いところです。
墨字の本でも小さな活字がびっしり詰まっていると読む意欲が減退しがちですが、点字でも適度に改行や行あけがあってゆったりしている方が読みやすいことなども実感します。

1時間かけて10ページ程度を読めるようになると、やっと念願だった触読による読書が実現しました。
この段階では、ぜひとも続きを読みたいと思えるものを選ぶことが意欲を後押しします。
また、読んだことのある小説でも、触読によって隅々まで読むことは新鮮な経験でした。
墨字である程度斜め読みができるのは、漢字の恩恵が大きいと思います。
「或・春・日暮・唐・都・洛陽・西・門・下・空・仰・・・」は芥川龍之介『杜子春』の冒頭場面に使われている漢字を拾ったものですが、このように、自然に目に入ってくる文字を追うだけでもイメージが広がり、およその文意が伝わってくる場合さえあるように感じます。表意文字の威力です。
けれども点字はフラットで、特定の文字が主張してくるということがありません。
すべての文字は、私にとって、ひとまとまりを読み終えるまでどこに着地するかわからない頼りなさがあります。
読み取った上でそれを読解していくことを含めて、「触読」なのだと思います。
今読んでいる文字に集中しながらも、ここまで読んできた文字も記憶していなければ、文意を理解することはできません。
取りこぼしているものも多いかもしれませんが、墨字で読んだときには通り過ぎてしまったところで立ち止まり、新たな意味を考えさせられることも少なくないようです。

広瀬浩二郎さんの著書『世界はさわらないとわからない』を読んで、「失明得暗」という考え方が新鮮でした。失明は、触覚で文字を読む「点字力」の獲得でもあったと述べられています。
「点字力」のみならず、広瀬さんにとっての「得暗」とは、皮膚感覚で風の流れや太陽の位置を推し量ることや、白杖を通して歩行する道の様子を感知することなど、視覚以外の感覚によって得られる豊かな世界との関りを表現した言葉だそうです。
触読したい!という思いを話しても、以前は晴眼者にはさほど共感されないことが多く、私の周りで触読しようと考える人はめったにいませんでしたが、この頃ではチャレンジする人が増えているように感じます。
日本点字普及協会主催の、中途視覚障害者に対する点字学習指導法研修会でも、L点字の教材を使って、多くの参加者が、基本的な文字を時間内にほぼ触読できるようになっていました。
触読することが新たな世界の獲得であることは、必要に迫られているわけではない晴眼者にとっても言えることかもしれません。
ブライユの考案した点字が当初なかなか理解されなかったのは、視覚障害者にも墨字の文字を教えるべきだとの考えが根強かったためだとも言われますが、点字には、墨字を読み書きすることの代替にとどまらないすばらしさがあることを歴史が証明しています。
触読の習得を必要とする人に、専門知識に基づいた適切な点字学習のカリキュラムが提供されることは、広瀬さんが表現されているような豊かな世界を獲得するための支援にもつながるのだと思います。
そこに、指導者自身も触読に取り組むという体験の共有があれば、習う人への大きな励ましにもなることでしょう。

そして私自身は、たどたどしい触読愛好者であるとともに、メインの立場は、点字を目で読む点訳者です。
誤解や迷いを与えず正しく伝わる点訳を模索するうえで、触読から体得した ことを活かしていきたいと思います。
点字を目で確認していらっしゃる点訳者のかたも、時間があれば、触読がもたらしてくれる豊かな世界を体験してみませんか。点字の魅力のみならず、ご自身の感性についても、新たな発見があることでしょう。  (K)